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法学
人々には見せなかった江戸幕府の裁判の基準、政府の求めを退けた明治の大審院、「帝国憲法の改正」として公布された日本国憲法。法学では、高校の日本史で学ぶ出来事が、法がなぜ今の形なのかを考える材料になります。

ひとことで言うと
部活で「去年はどうしたっけ?」と聞くとき
部活で困ったことが起きると、先輩に「去年はどうしたか」を聞きます。前の例をまとめて決まりにすると、だれが判断しても同じ結果になりやすくなります。法学でも、昔の判断の積み重ねと、それを条文にしてきた法の歴史を学びます。

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近世の法 → 法制史: 『御定書百箇条』は、人々に見せない決まりだった
1742 年、8 代将軍の徳川吉宗のもとで、江戸幕府の裁判の基準をまとめた『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』ができました。上下 2 巻で、下巻は 103 条あり、「御定書百箇条」とも呼ばれます。まとめたのは、寺社・町・勘定の三奉行です。
きっかけは 1720 年に吉宗が、罪ごとの刑の重さの基準を前もって決めておくよう命じたことだと言われます。下巻の条文の多くは、それまでの裁判の例(判例)を、決まりの形にまとめたものでした。判例を積み重ねてルールを作ることは、今の法学でも大切な考え方です。
ただし御定書は、人々には公開されませんでした。見ることができたのは、三奉行など一部の役人だけです。政治の中身を人々に知らせず、幕府の威厳を保つねらいがあったとされます。それでも写本は広く出回り、各地の藩の法にも影響を与えました。
人々に守らせたい決まりは、町の辻や橋のたもとに立てた高札(こうさつ)で知らせていました。今の日本国憲法 31 条は、法律の定める手続によらなければ刑罰を科せられない、と定めています。罪と罰の決まりを法律で示し、だれでも読めるようにする。江戸と今を比べると、法を公開する意味が見えてきます。
昔の法を今と並べると、「法を公開する」ことの意味が見えてきます。
図解江戸の裁判の基準と、今の刑罰の決まり
公事方御定書
- 1742 年にまとめられた
- 判例を条文の形にした
- 一部の役人だけが見られた
今の法律
- 国会が法律として定める
- 公布され、だれでも読める
- 憲法 31 条: 法律の手続で刑罰を科す


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近代の裁判 → 判例の歴史: 大津事件で、大審院は政府の求めを退けた
1891 年 5 月 11 日、日本を訪れていたロシアの皇太子ニコライが、滋賀県の大津で、警備の巡査に切りつけられてけがをしました。のちの皇帝ニコライ 2 世です。この出来事を大津事件といいます。ロシアとの関係が悪くなるのを恐れた政府は、犯人を死刑にするよう求めました。
政府が当てはめようとしたのは、天皇や皇太子に危害を加えた者を死刑とする、当時の刑法 116 条です。大審院長の児島惟謙(こじま・いけん)は、この条文は外国の皇族には当てはまらないとして、通常の謀殺未遂の罪を当てはめるべきだと考えました。5 月 27 日、大審院は無期徒刑の判決を言い渡しました。
この判決は、政府の干渉から司法権の独立を守ったものとして評価されてきました。一方で、担当の裁判官ではない児島が、担当の裁判官たちを説得したこと自体が、裁判への干渉だったという指摘もあります。同じ判決でも、どこから見るかで評価が変わる。法学では、判例をこうして読み直します。
2 つの憲法を比べると、この問題がよく分かります。大日本帝国憲法 57 条は、司法権は「天皇ノ名ニ於テ」裁判所が行うと定めていました。日本国憲法 76 条 3 項は、すべての裁判官は良心に従って独立して職権を行い、憲法と法律にだけ拘束されると定めています。裁判官一人ひとりの独立が、はっきり書かれたのです。
判例は、結論だけでなく、そこに至るまでの過程も読み直せます。
図解大津事件で分かれた考え
政府の求め
- 刑法 116 条を当てはめる
- 皇太子への危害として死刑に
- ロシアとの関係を心配した
大審院の判決
- 通常の謀殺未遂の罪を当てはめる
- 1891 年 5 月 27 日、無期徒刑
- 司法権の独立を守ったと評価
残った問い
- 児島は担当の裁判官ではない
- 担当の裁判官たちを説得した
- それも干渉だという指摘


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2 つの憲法 → 憲法学: 日本国憲法は「帝国憲法の改正」として公布された
日本国憲法の本文の前には、天皇の名で出された短い文があります。旧憲法の時代に、法令を公布するとき冒頭に付けた「上諭(じょうゆ)」です。そこには、帝国憲法第 73 条による帝国議会の議決を経た「帝国憲法の改正」を裁可し、公布させる、と書かれています。日付は 1946 年 11 月 3 日です。
大日本帝国憲法 73 条は、改正の案は天皇の命令(勅命)で帝国議会に出すと定めていました。両議院とも、総員の 3 分の 2 以上が出席し、出席議員の 3 分の 2 以上が賛成しなければ改正できません。1889 年の発布から一度も改正されなかった憲法の、この手続きを使って、日本国憲法は生まれたのです。
ここで疑問がわきます。天皇が国を治めると定めた憲法の「改正」で、国民が主権を持つ憲法を作れるのでしょうか。憲法学者の宮沢俊義は 1946 年 5 月、ポツダム宣言を受け入れたことで法の上での革命が起き、主権が天皇から国民に移ったと説きました。「八月革命説」です。宮沢は、1965 年にプロ野球のコミッショナーも務めた人です。
八月革命説は、2 つの憲法のつながりの矛盾を説明する学説として、広く紹介されてきました。一方で、当時の歴史の事実と合わないところが多いという批判もあります。歴史の事実と法の理屈を、両方から確かめる。日本史探究で学ぶ戦後改革の知識が、そのまま憲法学の議論に生きる場面です。
憲法の最初の数行にも、歴史の大きな転換が刻まれています。
図解日本国憲法が生まれるまで
- 11889 年 2 月大日本帝国憲法を発布
- 21945 年 8 月ポツダム宣言を受け入れる
- 31946 年 5 月宮沢俊義が八月革命説を説く
- 41946 年 11 月「帝国憲法の改正」として公布
- 51947 年 5 月日本国憲法を施行

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法学に進むなら: 高校で選んでおきたい科目
法学部では、多くの大学で 1・2 年生のうちに憲法・民法・刑法の基本を学びます。日本法制史や西洋法制史など、法の歴史を学ぶ授業を置く大学もあります(科目の名前や、必修かどうかは大学によって異なります)。
高校では、日本史探究を選ぶと、御定書や大津事件、戦後改革を 1 本の流れとしてつかめます。世界史探究は、明治の日本がヨーロッパの法を取り入れた背景を知るのに役立ちます。条文や判決を正確に読む力は、国語、特に論理国語で鍛えられます。入試の科目は大学によって違うので、志望校の募集要項で確かめてください。
日本学術会議の参照基準(歴史学分野)によると、日本にはもともと「権利」という言葉がありませんでした。フランスの法典を翻訳する中で、ほかの法律の言葉とともに取り入れられ、作られた言葉です。毎日使う言葉にも歴史があると気付くと、法学はぐっと身近になります。
法学の面白さは、昔の判断と今の条文を並べて、「なぜこう決めたのか」を考えられることです。憲法・民法・刑法など、大学の法学の分野は、このサイトの大学の学問「法学」のページで紹介しています。
日本史・世界史・国語の力が、条文と判例を読む土台になります。
高校生のうちに試せること
2 つの憲法の条文を並べて読む
国立国会図書館の「日本国憲法の誕生」で、日本国憲法の最初の文と 76 条を読みましょう。同じサイトの大日本帝国憲法の 57 条・73 条と並べると、違いがはっきりします。
国立国会図書館「日本国憲法の誕生」憲法条文・重要文書近くの「札の辻」や高札場の跡を探す
高札を掲げた場所の名残で、「札の辻」という地名が今も各地に残っています。地図で自分の町や近くの宿場町を探し、昔どんな決まりが掲げられていたかを、市町村の資料館で調べましょう。
大津事件の説明を読み比べる
図書館で、日本史の教科書や資料集と、法学の入門書の両方から大津事件の説明を探しましょう。児島惟謙の行動をそれぞれがどう評価しているかを比べると、立場による見方の違いが分かります。
「法学」に関連するコミュニティ
研究室・部活・サークルなど、全国の 33 件から探せます。
よくある質問
法学部で、歴史の知識は役に立ちますか?
役に立ちます。今の法律や憲法には、作られたときの事情が反映されています。日本国憲法が「帝国憲法の改正」として公布されたことのように、歴史を知ると条文の意味が立体的に見えてきます。法制史の授業では、昔の法そのものも学びます。
大審院と今の最高裁判所は、何が違いますか?
大審院は、明治憲法のもとで 1875 年から 1947 年まで続いた、最も上の裁判所です。今の最高裁判所と違い、法律が憲法に合っているかを判断する権限は持っていませんでした。日本国憲法 81 条は、最高裁判所にこの権限を与えています。
「御定書百箇条」は、ちょうど 100 か条だったのですか?
下巻は 103 条で、ほぼ 100 か条あることから「百箇条」と呼ばれました。上巻には、裁判や警察に関わる法令 81 通が収められています。