図 1 化学の広がり化学の広がり 2
有機化学
薬・香り・液晶・プラスチック。身の回りの多くの物は、炭素の骨組みでできた有機化合物です。分子の形と電子の動きから反応を理解し、ほしい分子を設計して組み立てる分野です。

ひとことで言うと
ブロックで、思いどおりの形を組み立てる
おもちゃのブロックは、つなぎ方しだいで家にも乗り物にもなります。炭素は 4 本の手をもつブロックで、つなぎ方によって無数の分子ができます。有機化学は、そのつなぎ方を工夫して、自然にある分子や、まだ世の中にない分子を組み立てる学問です。

01
炭素の骨組みが、薬と暮らしの分子をつくる
炭素の原子は、ほかの原子と 4 本の結合を作れます。鎖のように長くつながったり、輪になったりして、さまざまな骨組みを作ります。この骨組みに、酸素や窒素を含むグループ(官能基)が付いて、分子の性質が決まります。
ノーベル財団は、花の色やヘビの毒、細菌を殺す物質も、炭素の分子のはたらきだと説明しています。カリブ海の海綿から見つかったディスコデルモリドのように、海の生き物の分子が薬の候補になることもあります。こうした天然の分子を調べるのが天然物化学です。
ただ、自然から取れる量はわずかです。そこで、小さな分子を何段階もの反応でつなぎ、実験室で同じ分子を作ります。これが有機合成です。段階が多いほど、1 回ごとのむだが大きく響きます。
炭素の骨組みと官能基の組み合わせが、分子の性質を決めます。
図解10 段階の合成で、どれだけ残る?
- 11 回の反応で 90% が目的の物になる(収率 90%)
- 210 回続けると、0.9 を 10 回かけることになる
- 30.9¹⁰ ≒ 0.35。収率 70% なら 0.7¹⁰ ≒ 0.03

02
鏡像異性体: 右手と左手のような分子
右手と左手は、鏡に映すと同じ形なのに、重ね合わせることはできません。炭素に 4 つの違うグループが付いた分子にも、鏡に映した関係の 2 つの形があります。これを鏡像異性体と呼びます。
2 つの形は、性質がほとんど同じでも、生き物の体には違ってはたらきます。ノーベル財団によると、リモネンという香りの分子は、一方がオレンジ、もう一方がレモンのにおいです。鼻の受容体が、形の違いを見分けているのです。
薬では、違いが深刻な結果を招くことがあります。1960 年代の初め、鎮静剤のサリドマイドが原因で、多くの子どもが障害をもって生まれました。その後の研究で、鏡像の一方(S 体)にだけ、おなかの赤ちゃんに害を与える性質があると報告されています。
名古屋大学の野依良治さんは 1980 年に BINAP という触媒の部品を発表し、片方の形だけを効率よく作る方法を広げました。日本の香料会社は 1980 年代の初めから、この触媒でハッカの香りの成分メントールを作っています。野依さんは 2001 年のノーベル化学賞を受けました。
同じ材料でも立体の形が違えば、においも薬の効き目も変わります。
図解鏡像の 2 つの形で、何が変わる?
リモネン
- 一方はオレンジの香り
- もう一方はレモンの香り
サリドマイド
- 一方(S 体)に胎児への害
- 鏡像を分けて調べる大切さ
メントール
- 触媒で片方の形だけを作る
- 1980 年代初めから工場で


03
2026 年のノーベル賞: 生命が片方の形だけを使う謎
たんぱく質を作るアミノ酸にも鏡像の 2 つの形がありますが、生き物の体はほぼ一方だけを使います。DNA の糖も同じです。ところが実験室でふつうに合成すると、2 つの形は半分ずつできます。生命がどうやって片方を選んだのかは、1 世紀以上の謎でした。
2026 年 10 月、この謎に答えを示した 2 人に、ノーベル化学賞が贈られることが決まりました。フランスのカガンと、東京理科大学名誉教授の硤合憲三(そあい けんそう)さんです。硤合さんは、できた分子そのものが触媒になって、同じ形の分子を増やす反応を考え出しました。
1995 年の発表では、片方の形が 2% 多いだけの状態から始めて、偏りを 87% まで大きくしました。2003 年には、偶然生まれたわずかな差が増幅され、片方の形が最大で 99.99% になる反応を示しました。ノーベル財団は、これまでで最も見事な化学実験の 1 つと評価しています。
日本からのノーベル化学賞は、2025 年の北川進さんに続いて 10 人目です。
生命の起源にもつながる謎に、化学反応で答えを示しました。
図解硤合反応で、片方の形が増えるまで
- 1わずかな差偶然、片方の形が少しだけ多くできる
- 2自分が触媒にできた分子が、同じ形を作る反応を速める
- 3差が広がる多い方がますます増えていく
- 4ほぼ片方だけ最大で 99.99% が同じ形になる

04
クロスカップリング: 炭素と炭素を狙ってつなぐ
炭素どうしは安定していて、簡単には結合しません。以前は反応しやすい物質で無理に反応させたため、いらない副産物がたくさんできました。この問題を解いたのが、金属のパラジウムを触媒に使うクロスカップリングです。2 つの炭素がパラジウムの原子の上で出会い、狙った場所でつながります。
1977 年に根岸英一さんは亜鉛を、1979 年に北海道大学の鈴木章さんはホウ素を使う方法を発表しました。ホウ素の化合物は水に強く、亜鉛より毒性が低いので、工場での大量生産にも向いています。2 人はアメリカのヘックとともに、2010 年のノーベル化学賞を受けました。
鈴木さんは 1962 年、札幌の書店で手に取ったアメリカのブラウン教授の本に夢中になり、のちにブラウン教授の研究室に留学しました。いまクロスカップリングは、薬の製造や、農作物をカビから守る薬、有機 EL ディスプレイの材料作りに使われています。
狙った場所で炭素をつなぐ技術が、薬や材料づくりを支えています。

05
大学での学び方と、有機化学が生きる仕事
多くの大学では、1 年で基礎有機化学、2 年で有機化学を本格的に学びます。中心になるのが、反応を電子の動きで説明する有機電子論です。電子の多い所が少ない所を攻める、という少数の決まりで、多くの反応の筋道が分かります。
学生実験では、試薬を混ぜて反応させ、再結晶や蒸留で目的の物を取り出します。薄いガラス板の上で成分を分けて反応の進み具合を確かめ、NMR などの装置で分子の構造を確かめます。
硤合さんが 30 年以上在籍したのは、東京理科大学の応用化学科です。大学の研究室での発見が、世界の化学を動かすこともあります。仕事では、医薬品・農薬・香料・化粧品、液晶や有機 EL の材料などを作る会社の研究開発につながります。
図解新しい分子ができるまで
- 1設計する作りたい分子と反応の順番を考える
- 2合成する試薬を混ぜ、温度や時間を調整する
- 3取り出す再結晶やクロマトグラフィーで精製
- 4確かめるNMR や質量分析で構造を調べる

高校生のうちに試せること
粘土とつまようじで、鏡像の分子模型を作る
粘土の玉 1 つを炭素に見立て、4 色の小さな玉をつまようじでつなぎましょう。鏡に映した形も作り、2 つを回して重なるかどうか確かめます。4 つの色を 2 つ同じにすると、結果がどう変わるかも試してみましょう。
教科書の反応を、電子の動きで読み直す
高校の教科書に出てくるエステルの合成などの反応を、どの原子の電子がどこへ動くかという目で読み直しましょう。大学の有機化学の入門書には、電子の動きを曲がった矢印で表す書き方が載っています。図書館で探してみてください。
2026 年のノーベル化学賞の解説を読む
科学技術振興機構のサイエンスポータルには、硤合憲三さんの受賞を伝える日本語の記事があります。鏡像異性体と「ホモキラリティー」の謎がどう解かれたのかを読み、自分の言葉で説明しましょう。
サイエンスポータル「ノーベル化学賞に硤合憲三氏ら 2 氏」
「有機化学」に関連するコミュニティ
研究室・部活・サークルなど、全国の 173 件から探せます。
天然物ケミカルバイオロジー
名古屋大学(愛知県)
応用生命科学・北 将樹 教授
生物現象を担う天然物の単離・構造決定・合成と作用機序を研究する。

医薬合成化学分野
大阪大学(大阪府)
薬学研究科・化学薬学・有澤 光弘 教授
生物合成化学研究室
北海道大学(北海道)
応用化学
高分子組織化学研究グループ
名古屋大学(愛知県)
有機化学・高分子化学・竹岡 敬和 准教授

有機合成化学研究室
新潟大学(新潟県)
理学部 理学科 化学プログラム・有機合成化学・田山 英治 准教授
アンモニウムイリドの転位反応などを使い、非天然型アミノ酸の合成法を開発する。

生物有機化学研究室
新潟大学(新潟県)
農学部 農学科 応用生命科学プログラム・生物有機化学・佐藤 努 教授
テルペノイドなど天然有機化合物の生合成の仕組みを調べ、新しいタイプの酵素を探す。
よくある質問
有機化学は暗記が大変そうです。
反応の数は多いですが、大学では有機電子論を使い、電子の動きから反応の筋道を考えます。いくつかの決まりを身につけると、初めて見る反応も予想できるようになります。覚えた反応の理由が分かるのが、大学の有機化学の面白さです。
薬学部の有機化学と、化学科の有機化学は違いますか?
反応や立体化学など、基礎の内容は共通です。薬学部では薬の構造とはたらきの関係に、化学科や応用化学科では新しい反応や物質を作ることに重点を置くことが多くあります。授業の内容は大学によって異なるので、シラバスで確かめると違いが分かります。
出典
- The Nobel Prize「The Nobel Prize in Chemistry 2001 - Popular information」
- The Nobel Prize「The Nobel Prize in Chemistry 2026 - Popular information」
- 東京理科大学「硤合憲三栄誉教授 ノーベル化学賞記念ページ」
- 早稲田大学・東京科学大学・名古屋工業大学・東京大学「温度によるサリドマイド結晶の構造変化を明らかに」(2025 年)
- The Nobel Prize「The Nobel Prize in Chemistry 2010 - Popular information」
