図 1 外国語学の広がり外国語学の広がり 4
訳す・伝える
書かれた文章を別の言葉に移す翻訳と、話している言葉をその場で伝える通訳。2 つの言葉のあいだで意味をどう運ぶかを、実践と理論の両方から学ぶ分野です。

ひとことで言うと
家具を、新しい家の間取りに合わせて置く
引っ越しでは、前の家と同じ置き方ができるとは限りません。新しい部屋の形に合わせて、家具の向きや場所を考え直します。翻訳も、元の文の意味を保ちながら、別の言葉の決まりや習慣に合わせて文を組み立て直す仕事です。

01
翻訳: 並べて比べると、読めなかった文字が読めた
日本学術会議の参照基準(言語・文学分野)は、訳すことを、元の言葉の文章を理解・解釈し、別の言葉で表すことだとしています。それは 2 つの言葉の違いと格闘することであり、自分の言葉と文化を見つめ直しながら、異なる文化を体験することでもあると書いています。
翻訳の考え方が歴史を動かした例が、ロゼッタ・ストーンです。紀元前 196 年に刻まれたこの石碑には、同じ内容の文が、ヒエログリフ(聖刻文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシア文字の 3 種類で刻まれています。1799 年にエジプトのロゼッタ(ラシード)の近くで見つかり、いまはロンドンの大英博物館にあります。
ギリシア語の部分は、見つかってすぐに読めました。フランスのシャンポリオンは、王の名前を囲む枠の中の「プトレマイオス」の書き方などを手がかりに、1822 年にヒエログリフを解読しました。シャンポリオンは若いころから、古代エジプト語の流れをくむコプト語を学んでいました。言葉の知識と、2 つの文の比較が、解読の鍵になったのです。
2 つの言葉を並べて比べることが、翻訳の出発点です。
図解ヒエログリフが読めるまで
- 1紀元前 196 年同じ文を 3 種類の文字で刻む
- 21799 年ロゼッタの近くで見つかる
- 3ギリシア文字まずギリシア語の部分を読む
- 41822 年シャンポリオンが解読する

02
日本語との比較: I は「私」「僕」「俺」のどれ?
英語では、話し手が自分を指す言葉は、ほぼいつも I です。ところが日本語に訳すときは、「私」「僕」「俺」「わし」などから 1 つを選ばなければなりません。相手を指す you も、「あなた」「君」「お前」のどれにするかで、人物の印象が大きく変わります。
日本語学者の金水敏さんは、話し方を聞いただけで、話し手の年齢や性別などを思い浮かべられる言葉づかいを「役割語」と名づけました。年配の人物が使う「わし」や「〜じゃ」などがその例です。小説やマンガでは、会話だけで人物を描き分けるのに使われています。
翻訳者は、原文の人物の年齢や性格、場面を読み取って、日本語の話し方を選び直します。同じ英語のせりふでも、訳す人の選び方で、読者が思い浮かべる人物の姿が変わります。2 つの言葉を比べると、日本語には話し方で人物を描き分ける仕組みが豊かにあることにも気づきます。
訳す人は、言葉だけでなく、話し手の人物像まで日本語に移しています。
図解I を日本語に訳し分ける(例)
- 1小学生の男の子なら → 僕、おなかすいた
- 2落ち着いた大人なら → 私、おなかがすきました
- 3昔話の長老なら → わしは腹が減ったのう

03
通訳: その場で、2 つの言葉の橋になる
通訳には、話し手がひと区切り話すのを待って訳す逐次通訳と、話の進行と並行して、ほとんど同時に訳す同時通訳があります。国際会議の同時通訳では、通訳者が別室で訳し、聞く人はイヤホンで、希望する言語の訳を聞きます。
通訳の歴史は古く、江戸時代の長崎には、通訳を仕事にする役人がいました。中国語の通訳は唐通事、オランダ語の通訳はオランダ通詞と呼ばれました。鎖国の時代にも、外国との窓口では言葉をつなぐ専門家が働いていたのです。
通訳は、外国語どうしの間だけのものでもありません。耳の聞こえない人と聞こえる人の間をつなぐ手話通訳も、通訳の 1 つです。参照基準(言語・文学分野)も、日本手話を、言語を意識するための大きな手がかりに挙げています。
百科事典の『世界大百科事典』は、いまの通訳には、双方の考え方や表現の仕方をつかみ、その場に合わせて橋渡しをすることが期待されていると説明しています。単語を置きかえるだけでなく、話し手が伝えたいことを、聞き手に届く形で伝えるのが通訳です。
通訳は、聞く力・話す力・幅広い知識を一度に使う仕事です。
図解逐次通訳と同時通訳
逐次通訳
- 話し手がひと区切りするのを待つ
- メモを取りながら聞く
- 商談や記者会見などで使う
同時通訳
- 話と並行してほぼ同時に訳す
- 別室で訳し、イヤホンで届ける
- 国際会議などで使う

04
日本語を変えた翻訳: 『解体新書』と「神経」
翻訳は、新しい言葉を生むこともあります。1771 年、杉田玄白・前野良沢・中川淳庵は腑分け(解剖)に立ち会い、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の図の正確さに驚きました。翌日から翻訳を始めましたが、オランダ語の知識はわずかでした。
福井県文書館の資料によると、「眉とは目の上に生えた毛です」という所を訳すのにも、丸一日かかりました。それでも努力を重ね、1774 年に『解体新書』を完成させました。
このとき、意味は分かっても当てはまる日本語がないものには、漢字を組み合わせて新しい言葉をつくりました。その 1 つが「神経」です。「神気」と「経脈」を合わせた言葉で、『解体新書』が出るまでは存在しなかった言葉です。
大学の翻訳論の授業では、こうした例も手がかりに、何を残し、何を変えて訳すのかを考えます。参照基準は、外国語が 1 つ得意なだけで通訳や翻訳ができるわけではなく、理論を含む専門の教育を大学院で行うことが求められるとしています。その土台になる言葉の力は、学部の外国語教育でつくります。
翻訳は、言葉をつなぐだけでなく、新しい言葉を生むこともあります。

高校生のうちに試せること
せりふを話し手に合わせて訳し分ける
英語の短い会話文を 1 つ選び、話し手を「小学生」「先生」「おじいさん」に変えて、3 通りに訳してみましょう。一人称や語尾を変えるだけで、人物の印象が大きく変わることが分かります。
本物の『解体新書』をのぞく
国立国会図書館デジタルコレクションでは、1774 年に出た『解体新書』の画像を無料で見られます。漢文で書かれた本文の中から、「神経」の文字を探してみましょう。
国立国会図書館デジタルコレクション『解体新書』訳して、訳し戻してみる
好きな歌詞や短い文章を英語に訳し、友だちに日本語へ訳し戻してもらいましょう。元の文と比べて、何が消え、何が加わったかを話し合うと、翻訳の難しさと面白さが分かります。
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よくある質問
通訳者や翻訳者になるには、大学で何を学べばよいですか?
外国語学部の通訳・翻訳の演習で基礎を学び、専門の大学院に進む人もいます。参照基準も、理論を含む専門の教育は大学院で行うことが求められるとしています。外国語の力と同じくらい、日本語で正確に書く力も大切です。
AI の翻訳があっても、翻訳を学ぶ意味はありますか?
AI の翻訳は、意味を大まかにつかむのに役立ちます。一方で、英語の I を「僕」にするか「わし」にするかのように、人物や場面に合った言い方を選ぶ判断は、2 つの言葉と文化を知る人が確かめる必要があります。
翻訳と通訳は、どちらが難しいですか?
求められる力が違います。翻訳は、辞書や資料で調べながら時間をかけて文章を仕上げます。通訳は、その場ですぐに訳します。どちらも、2 つの言葉の力と、話題になっている分野の知識が欠かせません。
